拓本の価値とは?





 拓本の価値とは一体何でしょう?極端な言い方をすれば、紙幣と同様、ただの紙切れです。その紙切れに、数万円〜数十万円(高いものでは数百万円)の値段が付くのは何故か?永遠の謎ではありますが、拓本研究家としては、少しでもその真相に近付きたいものです。以下では、拓本の価値について、ややロジカルに迫ってみたいと思います。

 昔は、現代のような「印刷」という技術がなかった
ため、一般人は、書を学ぶ際に著名な書家が書い
た手本を入手することはきわめて困難であった。そ
こで、碑石に刻した字を拓本に採ることで、その代
用とした。


 このように、現代のような印刷技術がない時代
に、多くの人が書を鑑賞したり学ぶための手段
として受け継がれてきた技術
「拓本」である。




 しかし、これだけ印刷技術が発達した今でも、拓本が
珍重されているのは何故だろうか。


 字を学ぶ観点からすれば、少なからず損傷し、字が欠
損した碑面から採った「拓本」よりも、旧拓(清代以前に
採拓された拓本で、近拓に比べ損傷が少ないことが多
い)の「コピー」の方が価値があるのではないか。


 ではどうだろう。仮に百人の書家を集め、字が鮮明な
「旧拓のコピー」と、若干字が損傷している「本物の近
拓」のどちらが欲しいか尋ねたら、おそらく全員が、「旧
拓のコピー」よりも、「本物の近拓」を選ぶはずである。


 ここから導き出せることは、拓本には、「手本」として
の価値以外に、別の何らかの価値がある
、ということ
である。(換言すれば、高いお金を出して拓本を買う人
は、「字」を学ぶためだけに買っている訳ではない、とい
うこと)。

 次に、こういうケースを想定してみたい。拓本は
高価なものであるために、偽物(翻刻本)が多く出
回っている。中には、一目では真贋の判定ができ
ないような精巧な偽物も少なくない。では、再び百
人の書家に集まってもらい、本物の拓本と、本物
そっくりな偽物の拓本を並べ、前者は10万円、
後者は半額の5万円という値段を付けて販売し
たとしよう。どちらを購入するだろうか。


 答えは目に見えている。前者を買うに決まってい
る。例え半額であったとしても、偽物と分かってい
るものを5万円も出して買う人はいない。繰り返し
になるが、その偽物が、偽物と言われなければ分
からないくらい本物そっくりであったとしても、その
偽物に価値を見出すことは難しいだろう。つまり、
ここから導き出されることは、拓本を求める人は、


 本物の碑石から採った拓本に価値を見出して
いる
、ということである。そっくりであっても偽物の
碑石から採った拓本では決してダメなのである。



 話を進めよう。本物の碑石から採った拓本にも、旧
拓と新拓があるように、採拓した時代により拓本の
価値が異なる。当然、
古い時代に採った拓本の方
が価値が高い
これはなぜか。まず考えられる答え
としては、「古い時代の拓本は、碑面があまり傷
付いていないので、字が見易いから」
というもので
ある。ある意味、当たり前の話である。


 しかしである。字が見易い、という理由だけにスポ
ットを当てるならば、「旧拓のコピー」で十分という話
になる。そうでないというのであれば、やはり、高い
お金を払って拓本を買うのは、「字を学ぶ」こと以外
の理由がある、という仮説は、あながち間違ってい
ないということになる。

 だいぶん絞れてきた感はある。ここまでの話を整理すると、@手本としての価値以外に、別
の何らかの価値を見出している
A本物の碑石から採ったということに価値を見出してい
B古い時代に採ったものに価値を見出している
、という3点から推察できることは何か?


 上記3点をベースに大胆な仮説を立ててみた。

@本物の碑石には、書丹者(オリジナルの書を書
いた書家<例えば九成宮醴泉銘の書丹者は歐陽
詢)の命(精神)が込められている。


A碑石から拓本を採るというのは、その命(精神)
を受け継ぐ、ということと等しい作業(採った拓本
には、書丹者の命<精神>が宿っている)。


B但し、その結果として、碑石は拓本を採る度に
少しずつ傷み、擦り減っていく。書丹者の命(精
神)を受け継ぐ度に、その命も碑石から削り取られ
ていく。旧拓には、書丹者の命(精神)がよりはっ
きりと宿っている。


 つまり、拓本を購入する人は、字を学ぶという目的
とは別に、
書丹者の命(精神)を少しでも受け継ぎ
たい、という思いがあるのではないか
。さもなけれ
ば、旧拓のコピーが容易に入手できる今、大金を出
して新拓を購入する理由は見当たらない。



 ちなみに、有名な碑は、千年以上の間、相当数
の拓本が採られたであろうと考えられる。九成宮
醴泉銘の宋拓は、今となっては千金をもっても求
めがたい貴重なものであるが、宋代には相当数の
拓本が採られたはずである。しかし、時の経過と
ともに、その99.99%は失われ、現在に至ってい
る。


 昔取られた拓本が、時代とともに徐々に失わ
れていく中で、その後に採られた拓本も、徐々
に希少価値を高めていくのである
(書丹者の命
を受け継ぐ受け皿が減少するのだから当然といえ
ば当然のことであるが)。「拓本は失われていって
も、オリジナルの碑石があるではないか」、と考え
たくもなるが、その碑石は、今となっては命が削り
取られた後のものである。旧拓のような鮮やかな
拓本を再び採ることはできない。

 2013年秋、西安市内から4〜5時間以上クルマに揺ら
れ、念願であった陝西省臨游県の九成宮跡を訪れた。
交通手段がなく容易に訪れることができない場所にあ
るだけに、九成宮跡に辿り着いたときは、それだけで感
動したものだ。


 しかし、碑亭に足を踏み込み、九成宮醴泉銘の碑石
を目にしたとき、どう表現したらいいか分からないような
複雑な感情に覆われた。
碑の痩せ細った字を目の当
たりにしたとき、歐陽詢がこの碑に注ぎ込んだであ
ろう命が、もう残り少ないことを感じずにはいられな
かった。
切なかった。


 西暦600年代に作られたこの碑は、1400年間の間に
いったい何万枚の拓本が採られたのだろう。ガラスケー
ス越しに、今にも消えてしまいそうな細い字を見ながら、
こう思ったのである。こ
の細い字が消えてしまわぬうち
に、自分も、彼が注ぎ込んだ命を受け継ぎたい

と・・・。


 拓本を採ることは、碑から命を受け継ぐことであり、
また、
命を削り取ることでもある。何という皮肉だろう。
削り取らなければ受け継ぐことができない。それが
拓本というものである。


 そう考えたとき、なんとなく分かる気がするのだ、拓本
の本当の価値が。





(参考)九成宮醴泉銘の碑面
 上の画像は、九成宮醴泉銘碑の右上。←が近拓。冒頭の「九」という字は二画目がボロボロ
になっており、旧拓にみられる鋭さはない。その左にある「維」という字は、1400年もの間、膨大
な数の拓本を採られた結果、碑面が徐々に削られ、字刻の溝が殆どなくなっている。



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